昭和52年10月23日 桜井家霊祭

(     ?      )ところすらがこの頃だんだんありますけれども、私は、本、これではやっぱり、ダメだ!と、まぁ人間の事ですから、例えばお祭りを、なら、このお祭りを仕えられんでも、まぁ、皆さんが、あ~、お婆さんの、お~、またお母さんの、三年の式年祭、式年祭、と言うて、まぁ思いを込めて、ここにいる、言わば、結晶されて、そして、皆さんが万事御都合、お繰り合わせを頂いて、ここに参周して参りました。
 そういう思いがなからなければ出来る事じゃありませんが、その思いを取り付かれて、今度は、私が神様へ、又は、霊様へ、このお取次をさしてもらうのですけれども、う~ん~、やはり、え~私共の気持ちというものがいつも霊様へ、神様へ、向こうておるとばかりはおよばれません、そこで、なら、(?)を正して御神前に、御祈念をさしてもらいます、大祓いなんかは、一心にこう、掃除をさせて頂いておりますと、その自分の心が神様の方へじーっとこう、向かって行く、そして心が平生になる、そして、まあ清まった上にも、こう清まった心と、そして、霊様の心、神様の心とこう交流点が、感じられる、そこからお祭りが仕えられる、で、そういう意味でも、やはり、形式化ではなくて、その形式そのものを、大事にしなければならない。
 私は今日のお祭りはそれをしきりに感じたんですけれども、う~~、私が、あ~、ここ4・5日体が大変悪くしましてから、特に足がこんなに、(ふうご?)ですから、え~、なかなか出来ません、昨夜も、田主丸地区の共励会から、遅う、文男先生が、帰って参りまして、それからあの、かならず、もう12時もう過ぎておりましたでしょうか、足をもみに私の部屋に入ってきて、そして又1時間、もうその上も足をもんで、ん~帰ったんですけれども、と言うて、先生、まぁ~だ先生、64ぐらいしかなんなさらんとに、足がこんなに弱るのだろう、どういうて、神様が、例えば、私がもう、三十年間、こう、言うなら座りずくめの修行をさしてもらっとりますからね、(笑っておられる)
それでその、ん~、本当言やぁ神様が、あぁ、なら、4時半に下がって、4時半からお風呂入るから、お風呂入る30分でもよいけん、もうここの敬内だけでも2・3回こう、ぐるぐる回って、この散歩でもさせて頂いたら、もっと足が強く成るんじゃないだろうか、と、もう信者がそれを言うて下さるから、何回も何回もお取次、お願いをしたんですけども、神様からお許し頂かなかったんです、30年間の間、それで結局、うんなら神様は、私がこう足が弱る事が、あぁ、「喜んでござる、好いてござる」としか思われないわけなんです、ね、けれども、そこからです、私と神様との間に、その、言うならば生き生きとしたものが交流しだす、そして、のこり沢山の人が助かる働きといったような、ことが生まれてくるんです、だから私共の考えと、神様の考えと言うのは、も~う、天地ほどに違うのですから、人間の常識を越えたもの、それが信心です。
 えぇ、御神前の霊様、あぁ、年忌年忌に、仏教で言うなら御芳情する、お道で言うならば、式年のお祭りをこのようにしてさしてもらう、そして、思いを込める、その思いを込めた、そのものが、なら取り次がせて頂く私自身が、え~、神様にどのように響いて行くのか、また霊様はどのようなお喜びを下さるのか、分からないようでは、本当に低式化してしまうのですから、この辺の所を、うぅん~、私はあの、魂、私共が、あ~、おかげを頂かなければならん、信心も頂かなければならん、おかげも頂かなければならん、と、こういう風に、この~、まあ言うならば、二つの願いというものが、かけられておるのが生身をもっとる人間なんです。すと、魂の世界に入りますとね、もう、肉体の痛いとか痒いとか、そういうことじゃない、言うなら、心だけの助かりを願われる、言うならば、本当の信心を、その~、に、目覚められた霊は、もう限りなく、霊の世界で、喜びの霊、安心の霊を目指して、おかげを頂いていかれるわけなんです。
 ですから、私共は、お金がなかりゃぁ、お金のお繰り合わせを願わんならん、病気すりゃぁ、治して頂きたい、というような願いもこう、まぁある、だからそれに対する信心を、ですからこう、言うならば、おかげを頂かなければならない信心、心が助かる、みた・た・徳の世界も、というのですから、大変そのへんが、こう、複雑なんですけどれども、霊様の世界はもう、五感というものがありません、ですから、ほんの、魂のことだけ、心のことだけですから、それにも気付いていない、その心を開いていない、そういうお導きがでけてない霊はもう、おぉ、(?)あがりませんですねぇ、それはもう、あぁぁ、目に見えない世界のことといやとこう言うても、仕方がないですけども、確かにあの世もうは闇黒の世界ですから、まあ「うようよしとる」ということに過ぎません、ね、けれども、光を願うとか求めるとかという、導きを受けた霊達は、光をいよいよ頂く事の為に、精進いたします、それで、なら、あの~、霊の、助かり、霊の安心、または、霊の喜びを、(おおかして?)今日の霊なんかは、今丁度、雪が、あぁ、この、菊の花の、時代に生っきだからでしょう、沢山のもう、菊、平菊、もう様々な菊を、沢山こう、集めておられとるところを頂いて、これをあの、盛り場棚ななり、御生花なりに、生き上げたら、盛り場棚も出来るだろう、(おへいさ?)も、出来るだろうという感じ、ですから、信心の喜びをこう集めておられるというのが、今日の霊様達の、感じです、ですからこれからこれを、うんなら、その、見事に、これを生き上げるということには、もう、再現がないです、お花を稽古する方達が、もう稽古という事にはもう再現がないように、ね、ただ、一通りの形だけを覚えるだけじゃなくて、それが見事に生き上げられる、言わば、これから、そういう霊様が、あの、精進をなさるように思わしてもらいました、ね。
 これは、一例ですけれども、昨日私はあるお取り次ぎをさして頂きましたら、もういかにも花のようですけども、芯がこう枯れて、おる、大きな花を、ある、ある、事情のことで、お届けさして頂いたら、こちらから祈りをいくら送ってやってもね、それ、「祈る、受ける、瑞々しさがないからダメだ」って神様から頂いた、ね、向こうにも受けようという、生き生きとしたものがあれば、通うてるかもね、というような意味の事を頂いたんですけども、まら霊様でもそうです、枯れ果てたような感じの霊様では、いくらこちらが、真心込めて送っても出来ませんけれども、そこに気付いた霊、そこを、に、魂の、助かりを願う霊であればです、なら、氏子の、信心と、霊の信心とがあいまって、今日のような式年のお祭りを堺に、(?)も申しますように、一段と霊の位も進み、一段となら、お花を生ける、言わば、あぁ、事も、上達がでける、というような感じです。うん。
 しかも、本当にあの、瑞々しい、あの、おぉ、皆さんの真心と、また、あちらが、瑞々しい、生き生きとした心でお受けになられる、そこになら、あぁ、私の取り次ぎで、なんか交流がでけたといったような感じの、霊様の、今日はお祭りでした。
 もう、これは神様の、今も申しますように、私が30年間、散歩も許されずに、まあ言うならば、門外不出という訳ではない、用があれば、なら教会にも行くし、御本部参拝もしますけども、そのおぉ、他以外は、もうご神前に奉仕ということだけで、ですから少しからだの健康の為に、こう散歩でも、お~、したがよかろうごたるのが人間の考えです、ところが神様の考えは、私にも分かりませんけれども、あの、「散歩はいらん」とこう仰る
わからんです、で、なら、あぁ、こんなに不自由なんです、うん、ですから、神様を、「あなたが散歩もさせなされなかったから、私はこんなに体が不自由になって、なってきますよ」と言うて、不平不足などおこるおことは、ただますます、ありがたい、ものが湧いて来るがもうしょうがないくらいに湧いて来るです、ね、そしてそこから、あの、私だけではない、沢山の人達も、取次助けられていく働きが、そういう中から起きて来るような感じです。
 だから、信心させて頂く、信心生活とは、いかに神様任せの、神様を中心にした、生活でなからなければ、本当のおかげにはならないということを、感じますですね。
 今日のの霊様はそういうことも、なんか教えて下さっておるような気がいたしますね。

                                    どうぞ


秋山誠輝